プロローグ

 クーラーのきいた、和室の床の間には、『飛翔』の掛け軸がかかっている。これから、『グラサン・レディス』の佐藤香代が、男の指導対局を受けるところだった。
 男と香代が、将棋盤の上に駒をならべおわると、香代が、ていねいに頭をさげた。
「よろしくお願いします。」
 男は、小さくうなずいた。
 盤上の男の駒には、はじめから飛車と角がない。実力の差があるふたりが、将棋を指すとき、強いほうが駒をはずす。『飛車角落ち』とか『二枚落ち』とよばれる、ハンデ戦だった。
 男は、すぐに指さなかった。しばらく盤面を見つめていたが、ふと顔をあげた。
「香代。光小ゲームクラブの大塚純也は、将来、プロ、いやタイトルをねらえる少年だ。純也をきたえるための相手は、さがせているのか?」
 香代は、顔をあげた。
「はい、先生。詩織と絵美奈の情報では、三人ほど候補になる男の子がいるようです。」
「棋力は、どのくらいだ?」
「三人とも、純也と同じ、2、3級とのことでした。」
「そうか・・・。」
 男は、ゆっくりと腕を組むと、チラッと外に目をやった。庭の竹林の葉が、風にゆられて、サラサラと気持ちのいい音を立てている。
「香代。その三人の中で、だれがいちばんふさわしいと思うか。」
「はい。並木小の六年生、中倉祥という子が・・・。」
「なぜだ?」
 男の質問に、香代は、きゅうに声をひそませて、ささやくように、なにかを話した。
 男は二度三度と、うなずいている。
「強くなるにはなにが必要か、それをおしえるには、いい相手だ。四番のメニューを、命令しなさい。」
 男の声に、香代はうれしそうに、口もとをゆるめた。
 男は、右手をのばすと、右の銀を、しずかにつまみあげたのだった。