プロローグ ―ボノボとの出会い

「江口、動物好きだったよな。『ボノボ』っているだろ? アメリカで出たボノボの本の版権が取れたんだけど、担当するか?」
 出版社で本の編集をする仕事をしていた私は、ある日、編集長からこう聞かれました。
「やります」
 即答してから、私はこっそり考えました。「ボノボ」って、聞いたことあるなあ・・・。たしかサルなんだけど、どんなサルだったっけ。
 編集長のいうとおり、私は動物好きです。ただ、専門の勉強をしたことはないので、動物全般についてバランスよくわかっているわけではありません。小さいころから椋鳩十や子ども向けのシートン動物記など、動物の本は読んでいましたが、そういえば、サルについての本となると、知りたがりやのジョージが出てくる絵本『ひとまねこざる』ぐらいしか記憶にありません。
 でも、入社してすぐ百科事典の編集部に配属され、生物分野の改訂作業を受け持っていた私は、ふつうの編集者よりは動物についてくわしくなっているだろうという自信はありました。
 この本を手にとってくださった人のなかにも、「ボノボって知ってる」という人と、「聞いたことがある」というぐらいの人と、「ボノボって何?」という人とがいると思います。私がそのとき、身のまわりの人に聞いた感じでは、「聞いたことがあるけどよく知らない」が七割以上、「ボノボって何?」が二割、「知ってる」が一割に満たないぐらいでした。
「聞いたことがあるけどよく知らない」組の私は、資料と原稿を読みはじめました。

 手渡された資料には Make Love Not War (戦争ではなく愛を)と大書されていました。英語の後ろにカッコ書きにした日本語訳はちょっとひかえめに、遠まわしな表現になっていますが、もっと直接的にいうと、「ケンカはやめて、セックスしよう」です。
 なんとボノボは、「セックスを使って、あらそいを解決するサル」だったのです。
 ふつう、動物が集まっているところに、食べ物を投げ込んだら取り合いになります。動物園のサル山で、動物園で売っているえさをかわいい赤ちゃんザルにあげようと思ったら大変です。たいていは、すばしっこい大人のサルに取られてしまいます。でもすばしっこいサルも何の心配もないわけではなく、その後に、力の強いサルに横取りされたりします。少ない食べ物をめぐって、とっくみあいのケンカがおこることもめずらしくありません。
 では、おなかをすかせているボノボの群れの中にサトウキビをドサリとおいたらどうなるか、というと、取り合いのケンカでもなく、早いもの勝ちとばかりに殺到するのでもなく、あちこちで性行動がはじまります。いや、冗談ではありません。本当のことです。
「性行動」という大まかないい方をしたのは、すべてが「セックス」ではないからです。組み合わせはあきれるほどに多種多様。あちらではオスとメスがふつうの交尾を(つまりセックスを)しているし、こちらではメスとメスが抱き合って性器をこすり合わせ、そちらでは、オスとオスがたがいのお尻をくっつけあっています。子どもも大人も、関係ありません。赤ちゃんボノボも参加です。
 こんないっぷう変わったパーティをひとしきり楽しんだ後は、みんな気持ちが落ち着いてくるようです。取り合うこともケンカすることもなく、サトウキビに手をのばします。最初に手を出すのは、たいていは年長のメスですが。
 どうやらボノボは、何か興奮するようなことがおきたとき、とりわけ、ケンカがおきそうな状況になったとき、興奮をしずめるために性行動をしているようなのです。「ケンカはやめて、セックスしよう」のキャッチフレーズがつくだけのことはあるのでした。
(続)